第97回 高校ラグビーの思い出ちょっとだけ by岬のおっさん

こんなタイトルで書き出したらよっぽどテーマに困ってるなと察してください。
ここに思い出を書いて、皆さんに喜んでもらえるとか、参考にしてもらえるほど、強豪校でもないし、厳しい練習もしていません。弱小チームの普通の一選手で、正味わずか2年間のラグビー生活でした。
でもほんまにテーマに困って書き出してしまいましたので、ご用とお急ぎでない方はお付き合いください。

実はこの話を書こうと思いついたのは、ある中坊が昔のラグビーのヘッドキャップがヒモ式だったのを見て大笑いしていたという話からです。そう言えば私の高校時代と今ではスタイルもルールも用語も大違いだなぁ・・・というところから始まりました。その子と私は親子以上に年齢差がありますから、まぁそれも当然だなとは思うのですが、そこで私の父と私の関係に気付きました。
親父とラグビーの話をしていてほとんど差を感じたことはなかったのです。

以前私の父の旧制中学ラグビーのことを書きました。(コラム第8) 
それは昭和
9年頃のことでした。それから私が高校ラグビーを始める昭和42年までには実に三十数年の月日が流れていますが、おそらくそんなにラグビーは変化していなかったのじゃないかと思われます。今の子に「昔はトライは4点だった、その前のおれの時代は3点だったんだ。」なんて言うと、びっくりしてくれますが、親父がぼくにそんな話をしたことがないところから見てもおそらくトライは戦前から3点だったんでしょう。トライの語源の説明では、トライしただけでは得点にならず、その後のゴールキック成功でやっと点になったということらしいですが、親父の年代には間違いなく3点でした。おそらくルールもそんなに変わらないし、スタイルもほとんど変わっていないと思います。写真を見てください。(左が親父で右が私)

ちょっとスタイルの説明をしましょう。

 ヘッドキャップ
親父の頃もぼくの頃も、ヘッドキャップはかぶりたい者だけがかぶっていました。
(今は高校卒業までは義務です。) スクラムで思いっきり頭をぶつけたり、挟まれたりするFW第一列、第二列は餃子耳になるのが嫌でヘッドキャップをかぶっている者が多かったですが、私自身もフロント(今のプロップ)からバックロー(今のフランカー)に転向した時点でヘッドキャップを脱ぎました。(こんな風にポジションの呼び名も昔と今では大違い)

 ジャージ
私の試合用ジャージは羊毛だったので、親父のもたぶん羊毛だと思います。写真右が高3で新調したジャージで、ここから化繊になりました。) 羊毛だと洗濯すると思いっきり縮みます。だからこの写真のようなゆったりしたジャージじゃなく、ぎりぎり着れるぐらいのサイズを選んで、簡単に敵に掴まれないようにしていました。その代わり、着る時そこらじゅうちくちくしていやでした。

→次は右上へ

 パンツ
だいたいみんな長いパンツでした。平尾GMとかの時代にどんどん短くなっていったような記憶があります。
バンツにはゴムがなく、ベルトを通すようになっていて、そのベルトは太い帯
(柔道の帯よりは細い)でした。(写真上)
その頃のラグビー部員は90%以上いんきんたむしを養っていたので、短いパンツだと、いんきんの下端が見えるおそれがあり、だから長かった??
パンツの下は海パンかサポーターかノーパンです。あっ、白いブリーフってヤツも普通に居ましたね。ラガーマンには結構ノーパン派が居て、昔、慶應の選手が相手のタックルでパンツが落ちたところを写真週刊誌に撮られた事件がありました。今はみんなスパッツだから、試合中にパンツが破けても平気で着替えていますが、昔はパンツが破けたらチームメイトにぐるりと取り囲んでもらってその中で履きかえたものです。

この写真は着替えとは関係ありません。

 スパイク
だいたい釘でポイントを底板に打ち付けていました。ねじ込み式のポイントになったのは大学時代?固定式の硬質樹脂はもっと後?
→左下へ


そもそも私はラグビーなどする気はまったくなく高校へ入りましたが、同郷のナガノ君が先にラグビー部に入って、誰か引っ張ってこいと言われて、ぼくを呼んだのです。「君、おやじがラグビーしてたんやろう?ほな絶対センスあるで」とか意味不明なことを言われて、まぁ寮の先輩にも何かスポーツクラブには絶対入れよと言われていたので、のこのこついて行ったのですが、グランドでナガノが「これが友達の
Y君です。」と紹介すると、上から下までぼくのスタイルを見た吉田キャプテンが「おまえフロントな」と言うて、それでポジションが決まってしまいました。昔から足が短く、体格もまぁずんぐりむっくり?の部類なので、プロップに向いてると思われたのでしょう。確かに今から振り替えればどう見てもプロップスタートで正解だったと思います。

練習開始した週末に試合に出ました。そうです。わがN高校ラグビー部は間違いなく人数不足でした。なんと併設の中学部の3年生も試合に出てました。中学にはラグビー部がなかったのですが、先生が体育の授業でめぼしいのを連れてきてやらせるのです。当時はまぁそんなもんでした。

初試合はどこか阪急沿線の高校へ行ったと思います。

おもいっくそ雨が降っていて、当時のボールは皮ですから、すぐに雨を吸って重さが2倍ぐらいの感じになります。しかも表面はつるっつるで下手くそな新人が持ったらノッコン間違いなしです。でもノッコンはしませんでした。なぜか?そう一回もボールに触らなかったからです。

ただただ、しんどい。

キックオフ後にFW同士の最初の接触が起こりますが、練習では見たことのない激しさです。これはケンカか?戦争か?

スクラム練習の時には人数不足のチームとしては88のスクラムなんて組めません。FWはぎりぎりの8人しか居ないので、33、せいぜい35で組みます。それを一週間練習して試合でいきなり8人スクラムを経験すると、新人プロップには想像もつかない衝撃・圧力が足の先から脳天まで突き抜けます。

「うわっ、これ真剣にやらんと、ぐちゃっとつぶされるわ。」

しかもプロップには首の取り合いというスクラムで真剣にならざるを得ない勝負が待っています。これを語り出すと連載化しなければならないので、今は「しんどいんや」という部分だけ共感しといてください。

ただ、ただ、しんどい。

スクラムが終わって、頭を抜いて、後を見ると、そこでセンターがノッコンして、また次のスクラム。今度は向こうの攻撃で、FWが来て、ごちゃごちゃやってる内にまたスクラム。次はバックスに回ってグランドの端から端まで走って行ったけど、ぼくが着く頃にはまたスクラム。次は相手バックスが背後への長いパント。「コーナーフラッグめがけて走れ」と教えられた通り、走ったが、そこでまたスクラム。
結局、スクラムからスクラムへ渡り歩くだけのきつい数十分の初試合が終わりました。

→右へ


きょうは雨だったのでボールはそんなに動いていません。身体もそんなにしんどくはありません。でも生まれて初めて体験する衝撃・圧力で身体中がびっくりしています。

どこも怪我してないことを確認して(すり傷で膝から血が流れている程度は怪我とは判定しない)、体育館の玄関かどこか貸してもらった場所に着替えに戻ります。先輩や同僚が声をかけてくれて「はぁ」「ええ」「まぁ」みたいな感想?しか言えず、チーム全員で阪急の駅まで坂道を降りて歩きました。すっかり雨が上がり、振り返れば六甲の山並みがきれいに見えます。なんか、表現できない喜びが少しずつ身体を充たすような気がしました。試合の結果は忘れましたが、チームメイトはみんな安堵感からか、ある者は饒舌に、ある者はあくまでも寡黙に、でも「にやっ」という顔はしています。以前卒業文集に「試合が終わったらチームメイトはみんな兄弟みたい」と書いてくれた子が居ましたが、そんな感じもあります。

みんな制服制帽だが、一人だけ違う色の帽子(中学部なので)をかぶったK君がにやにやしながら寄ってきて「せんぱい、ちょっとビールでも呑みに行こか」と言われた時には心底ぶったまげました。

そんな初試合も終わり、私はひたすら下手なりの練習に邁進していくことになります。高校ラグビー生活のスタートです。先生は滅多にグランドへ来ないので、もっぱら先輩・同僚にラグビーを教えてもらいます。でも教えてくれる方もそんなに分かっている訳ではないので、後はたまにあるTV観戦とかで少しずつルールも憶えていきました。でも結局、私が憶えたのは自分に関係する最小限のルールだけで、大学でも社会人でも続けますが、本当にルールを憶えたのは、C級レフリーを取ろうと思ってルールブックを勉強した30歳ちょっと前の時です。

こんなんで強くなれる訳がないですよね。でも当時は身体さえ鍛えればいいんだと思っていました。試合中も静かにもくもくとプレーしてました。「お前ら静やのう」と先生はおっしゃっていました。たまーに強豪校とぶつかると相手が試合中もさかんに声を出しているのを見てびっくりしたもんです。

こういう高校ラグビー生活の反動が出て、今は子供らにひたすら「しゃべれ」、ちゃんとルールを憶えろ、練習の意味を考えろ・・・なんてやってます。その方がラグビー生活がうんと楽しくなるだろうと思ってですが、子ども達に伝わっているでしょうか? ほんのラグビー生活の入口の思い出だけ書きました。またよほどネタに困った時、続きを書いてみたいと思います。

おしまい